15th years

2008年1月27日(日)に行われた「KICK OFF 2008」の15th yearsコーナーで飾られていたパネル、展示品の写真です。(当日の模様についてはこちらのエントリを参照して下さい。)シーズン毎の説明文はパネルに記載された文章をテキストに起こしたものです。

1993年

Jリーグ最初のシーズン。前年のナビスコカップと天皇杯での健闘から期待されたレッズだが、負傷者続出、新外国籍選手は僅か1ヶ月で帰国という誤算から敗戦続き。超攻撃的なシステムは相手チームに研究され、サントリー、ニコス両シリーズとも10チーム中の最下位に終わった。しかし、新装の駒場競技場は超満員。負けても負けてもサポーターのパワーも試合ごとに増していった。

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1994年

岡野雅行、山田暢久ら、その後のレッズを担う新人が加入しプレー内容も格段に良くなったが、なかなか成績に結びつかず、サントリーシリーズは「定位置」の最下位に低迷した。7月、バイン、ブッフバルトというふたりのヨーロッパトップクラスの選手を獲得。このふたりに引っぱられる様にこの年の後半さらにレッズは試合内容を良くしていく。順位はひとつ上がって、12チーム中11位となった。

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1995年

ドイツから初の外国人監督オジェックを迎えた。駒場の改修によりホームとなった大宮サッカー場は、相次ぐ逆転劇に沸騰。ブッフバルトを中心とした守備、バインのパスに走る福田、練習生として加入した福永泰の活躍。サントリーシリーズは14チーム中3位と躍進した。8月には21500人収容となった駒場が完成。32ゴールを決めた福田正博は日本人初のJリーグ得点王に輝いた。リーグ前52試合、年鑑総合成績も4位となった。

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1996年

16チーム全30節の1ステージ制。負傷者続出という苦しい状況の中、開幕から5連勝。DFにフランスのボリが加わり守備が強化された。エース福田が負傷でほとんどプレー出来なかったが、岡野、大柴が活躍。10月の第22節でリーグ首位に立ったが「夢」はかなわなかった。岡野はJリーグ・フェアプレー個人賞を受賞。ブッフバルトは前年に続いて2年連続ベストイレブンに選出された。

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1997年

新しくドイツからケッペル監督が就任。パスをつないで攻め崩すサッカーへの取り組みが始まった。しかし、帰国したバインに代わるプレーメーカーとして期待されたバウアーが日本になじめず開幕2試合で帰国。2ndステージ前にベギリスタイン、ネイハイス両選手を補強したが、年鑑総合成績は17チーム中10位に終った。っしてシーズン終了とともにブッフバルトが帰国。天皇杯からはペトロヴィッチが新たに加わった。

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1998年

清水商業高校から新加入の小野伸二がセンセーショナルにデビュー。小野はベギリスタイン、福永泰と攻撃ラインを組み、6月には岡野、ペトロヴィッチとともにワールドカップ・フランス大会に出場した。2ndステージは開幕6連勝したが、ワールドユースで小野が欠場した間に3連覇し、ステージ3位に終った。原博実新監督は情熱的な指揮でチームを変革したが、タイトルを手中にする事はできなかった。

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1999年

1stステージで16チーム中13位と低迷し監督交代。7月からア・デモス監督が指揮をとった。小野は6月に左膝に大けがを負い長期欠場。丁寧なサッカーで浮上しようとする新監督の狙いも結果が出ず。11月27日の最終戦、J1残留には90分勝ちが必要だったが、0−0のまま延長入り。福田のVゴールも空しくJ2降格が決定。「We are Reds!」駒場に詰め掛けた2万人のサポーターもこの現実を選手とともに受け止めた。

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2000年

11チームが4回戦総当たりする全40試合のJ2。「1年でJ1復帰」を合い言葉に開幕8連勝で首位を独走したが、2巡目に入ると思う様に試合が運ばず、秋には昇格に黄信号が点った。残り7試合で横山謙三ゼネラルマネジャーが総監督として陣頭指揮。前年のシーズン終盤と同じような雰囲気の中、11月19日の最終戦、延長で土橋正樹のVゴールが決まって劇的にJ1復帰を果たした。

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2001年

J1に復帰したレッズはブラジルからチッタ監督を迎え、補強したトゥットがゴールを重ねた。しかし、7月に小野がフェイエノールトに移籍すると、エメルソンを補強したもののゲームメーカー不在。9月には監督が突然辞任し、後任のピッタ監督も試行錯誤を繰り返した。10月、埼玉スタジアムのオープニングでは6万人という記録的な観客を集めたが屈辱的完敗。16チーム中、年間総合10位に終った。

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2002年

元日本代表監督のハンス・オフトが就任。土台づくりをテーマとした長期的なチーム強化がスタートした。ベテランの福田、前年に加入した井原正巳がリーダーとなり、規律の共通理解を浸透させた。6月のワールドカップが終わり、2ndステージになるとチームは初の開幕8連勝。ナビスコカップでは初の決勝進出を果たしたが、ミスターレッズこと福田正博の現役最後のシーズンに初タイトル獲得は叶わなかった。

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2003年

ついに勝ち取った初タイトル。11月3日のナビスコカップ決勝、レッズサポーターがスタンドを赤白黒の3色に染めた国立競技場で、鹿島を4対0で下して「優勝」。20歳の田中達也が同大会のMVPとニューヒーロー賞を手にした。リーグ戦でも2ndステージに期待が高まったが、終盤に失速し6位。エメルソンはJリーグ最優秀選手賞に輝いた。さいたま市の政令指定都市への移行を記念して「さいたまシティカップ」が開催された。

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2004年

かつて選手としてプレーしたブッフバルトが監督に就任。アグレッシブで攻撃的なサッカーを掲げて、1stステージ3位、ナビスコカップでは3年連続の決勝進出を果たすも、PK戦で連覇を逃す。そして迎えた2ndステージ、開幕前の欧州遠征で世界のサッカーを体感したチームは、爆発的な攻撃力と前線からのプレスに支えられた守備で首位を独走。ついに11月20日、山田暢久主将によって、聖地・駒場の空にチェアマン杯が掲げられた。しかし、チャンピオンシップでは横浜FMとの死闘の末、PK戦で惜しくも涙をのみ、年間王者の座は掴めなかった。12月23日には、県庁から市役所をパレード。6万人の笑顔があふれた。

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2005年

Jリーグは、2ステージ制が廃止され、ホーム&アウェイ方式のリーグ戦で優勝が争われた。FWエメルソンの不調もあって、開幕5戦で3分2敗と大きく出遅れた。7月にそのエメルソンがアル・サード(カタール)に移籍。5月以降、ようやくエンジンが掛かり勝利を重ねていく。7月には、MFポンテ、FWマリッチが加入。すぐにチームに溶け込んだ2人の活躍もあって、終盤は優勝争いに絡むが、上位との直接対決で勝ち点を伸ばせず、最終節も快勝したものの、ガンバ大坂にわずか勝ち点1及ばず、リーグ制覇はならなかった。リーグ制覇を逃し、迎えた天皇杯。残された最後のタイトル獲得へ一丸となって挑んだ大会で、マリッチが初戦から決勝まで全試合でゴールをたたき出す大活躍を見せ、2006年元日の国立で清水を2−1で下して優勝。念願のアジア進出が決定した。チームを去る事が決定しながら、最後まで懸命にプレーし続けたマリッチへの拍手と声援が鳴り止まなかった。

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2006年

2年連続の2位を経て、「Jリーグ制覇」が最大の目標となった2006シーズン。オフには、元ブラジル代表・FWワシントン、左サイドの成長株・相馬崇人をはじめ充実した戦力補強を敢行。更に、オランダ・フェイエノールトから「自分自身が更に成長するために」小野伸二が帰ってきた。3月の開幕からワシントンのゴール量産などもあってスタートダッシュに成功。夏場に一時順位を下げるも、9月末の25節、再びトップに。10月からは「ALL COME TOGETHER!」のテーマのもと、ファン・サポーター、ホームタウン、そしてクラブが一体となって優勝に向け、共に突き進んだ。リーグ終盤、負傷や出場停止のアクシデントにも代わりに出場した選手が期待通りのパフォーマンスをみせ、首位で最終節の12月2日を迎えた。2位のガンバ大阪との直接対決は、リーグ戦最多となる62,241人が見守る中、3−2でガンバ大阪を破り悲願のリーグ優勝を果たした。12月17日の優勝パレードには、沿道に6万5000人がつめ掛け、多くの仲間とともにリーグチャンピオンの喜びを分かち合った。ゴール地点のさいたま市役所庁舎からは無数の赤い紙吹雪が舞い、感動的なシーンが作り出された。ワシントンはJリーグ得点王を獲得、闘莉王はJリーグMVPに選ばれた。この2人を負傷で欠いた天皇杯だったが、退任するブッフバルト監督のために残った選手たちが素晴らしい闘いを見せ、2年連続で元日の決勝に進出。決勝では最後までリーグ戦の覇権を争ったガンバ大阪を相手に押し込まれるシーンが続いたが、87分に岡野のアシストから永井が執念の決勝ゴールをあげ1−0で連覇を掴み取り、同時に2008年のAFCチャンピオンズリーグ出場権も獲得した。長いシーズンの最後の最後までチームとして気持ちのこもった戦いをみせ、Jリーグと天皇杯の「ダブル」という最高の結果をもたらせたブッフバルト監督と選手たちへの惜しみない拍手と歓声が元日の国立にいつまでも響き渡った。

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2007年

95年〜96年に監督を務めたホルガー・オジェック氏が11年ぶりに監督に復帰。ジェフ千葉から現役日本代表、阿部勇樹が加入して、長いシーズンがスタートした。開幕前には、オーストリア・ザルツブルグに遠征。結果は思わしくなかったが、長距離移動→調整→試合→長距離移動、とう、ACL参戦に向けた絶好のシミュレーションをこなし、来るべきアジアでの戦いに備えた。3月のシーズン開始直後は、新監督の戦術や考え方がチームになかなか浸透せず、引き分けが続くなど苦戦を強いられるものの、6月に中国で行われたA3チャンピオンズカップでチームが多くの時間を一緒に過ごした事で、相互理解が深まり、チーム力が飛躍的にアップした。自信を取り戻したチームはA3直後に再開されたJリーグで、アウェーFC東京戦に2−0と勝利すると、そのまま快進撃を続け、8月16日のアウェー、ガンバ戦を1−0でものにすると、次節には遂に首位を奪取。その後もリーグ最少失点を誇る強固なディフェンスから、効率的な得点を重ね、過密日程の中でも、なんとか勝ち点をもぎ取っていった。

初参戦でアジア制覇を目標に挑んだAFCチャンピオンズリーグ(ACL)は、3月のグループリーグ初戦、ペルシク・ケディリ(インドネシア)に3−0と勝利。初の海外公式戦となった第2戦アウェーのシドニーFC戦では、0−2のビハインドから同点に追いつき、貴重な勝ち点1を獲得。その後も爆発力はないものの、粘り強く勝ち点を積み重ね、最終節のホーム埼スタでシドニーと0−0で引き分け、ノックアウトステージ進出を決めた。ノックアウトステージ第1戦。ホームで前年王者の全北現代(韓国)と対戦。開始4分に長谷部が幸先良く先制点を奪い、後半には達也が追加点。終了間際に1点を返されるが2ー1でものにした。韓国全州での第2戦は、3000人超のレッズサポーターの後押しの中、4分に達也が先制、後半にはオウンゴールで追加点を奪って、準決勝進出を決めた。準決勝の相手は、同じく韓国の城南一和。アウェーの第1戦は2−2で折り返し、ホーム埼スタでの第2戦。ワシントンの芸術的なボレーで先制するも、その後2失点し、決勝進出へ苦しい局面を迎えるが、すぐさまセットプレーから長谷部がけりこみ2−2の同点に。試合は延長でも決着がつかずPK戦に突入した。一人づつ決めて迎えた城南2人目のキックを都築が見事な反応で防ぎ、レッズは4人全員が落ち着いて決め、決勝進出を決めた。決勝の相手は、イランの強豪・セパハン。第1戦、イスファハンでの戦いは、高地特有の気候と異常なまでに乾燥した空気など、日本との大きな環境の違いもあったが、ポンテのミドルシュートで先制。その後は、セパハンのアグレッシブな攻撃に手をやき、後半開始そうそうに追いつかれ、1−1のドローでホーム第2戦へ・・・11月14日、埼玉県民の日に迎えた決勝第2戦、真っ赤に染まった埼スタで59034人の圧倒的な大声援を受け、22分に永井が右足で渾身の力を込めた先制ゴール。後半にも、阿部が頭で加点し、ついにアジア王者に輝いた。

一方、リーグ戦では、秋以降、ACLや日本代表の活動からくる慢性的な疲労のせいで、チームは本来のパフォーマンスを発揮できなかった。一時、優勝は疑いのないものだと思われていたが、得点力の低下とともに勝ち点を伸ばせず、シーズン最後のホーム鹿島戦を0−1で落としてしまう。それでも最終節に勝てば自力優勝が可能だったが、結局、得点を奪えず0−1で敗戦。リーグ連覇が手のひらからこぼれ落ちた。

リーグ優勝を逃した後、レッズには、再び這い上がるステージが残されていた。リーグ戦が終了し、一週間後に開幕した「FIFAクラブワールドアップ」にアジア王者として出場したレッズは、今シーズンベストゲームといってもいい試合内容でセパハンに3−1で勝利し、準決勝でヨーロッパ王者の名門、ACミランと対戦しあ。組織的な守備からカウンターを狙うレッズだったが、強固なミランの壁をこじ開けられず、後半、一瞬の隙をつかれて、失点。決勝進出はならなかった。3日後に行われた3位決定戦では、チュニジアの雄、アフリカ王者のエトワール・サヘルと対戦。開始早々に先制ゴールを許すも、この大会がレッズでの最後の試合となるワシントンの2得点で逆転。その後同点に追いつかれるものの、PK戦を制し、FIFAクラブワールドカップ3位に輝いた。15日前には、Jリーグを逃し、悲しみに包まれた横浜総合競技場で、赤い仲間達の歌声が世界中に響き渡った。

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